ねねまねねまるとして生きたい

   

 

わたしには名前がある

 

ねねまねねまるでない名前がある

 

あたりまえのことなのだが

 

自分の名前でずっと生きなければいけない

というのは、私にとっては少々息苦しい

 

自分の名前というのは、たかだが5文字程度の

ものであったとして、

 

その人のことを知っている人物にとっては

名前というものから、その人の顔を思い出し

その人の話し方、特徴、その人の人生までをも映し出させてしまう

 

それが厄介なときがある

 

人間には、他人にみせるときの自分と

自分の中にある自分と他何種類かの自分がいると思う

 

それを世間では表裏などというが

 

ただ世間でいう裏の面が見えていないだけであって

どちらも表でも裏でもないのである

 

ただ自分以外の人に見えない部分というのが裏と言われてしまうだけなのである

 

詩や小説、物語を書くとき

他の人に見えている自分を使うことはない。

 

自分の中にいる自分のほうで文章を書くのだ。

 

 

中学生の頃、ポエムを書いて笑われていた子がいたが

詩や物語というのは書くだけでバカにされやすい

 

どこか自分に酔っていると思われからであろう

 

当の本人してみたらありのままを書いたにすぎない

 

ただ、常日頃見せている姿と異なったりとか

自分の中の自分というのが世間体とはあわないせいで

追い出されてしまう

 

 

そうであると自分の名前というのはやっかいで

 

自分の中の自分で文章を書こうとすれば

名前のイメージばかりがさきばしってしまい

いつも見えているほうの自分で文章が想像されてしまう

 

そうなると、自分の文章というのはやはり世間体には

気持ち悪いものになりがちだ

 

自分を知っている人間からしたら、

この人頭おかしい人だったんだとなる

 

それを恥ずかしく思う自分もまたいる

 

かといって、見えているほうの自分で文章を書いてみると

どこかしっくりこない

 

世間体、見た目ばかりを気にしていて 

決まった形決まった表情し表現できず

なんだか心にあることを書いた気にはならない

 

 

ねねまねねまる

 

私のぬいぐるみの名前なのだが

ぼやーとした目をもつ優しいぬいぐるみだ。

 

 

これがいいと思った。

 

ねねまねねまるという語呂が好きなのだが

ねねまねねまるで書いてるときだけ

 

本当の名前の自分を気にしなくてすむ

 

書いているのは私であるだが

どこか他人が書いているようにも思える

 

自分の中の自分が書いているのだが

世間体的には、架空の人物でいたいのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 - 絵本