「他人も自分も大嫌いだった」ねねまるのプロフィール

 

こんにちは。放浪作家 ねねま ねねまるです!

 

このページでは、このブログ「天下の大将軍」とnote「宛先のある言葉たち」の著者である”ねねま ねねまる”のプロフィールの詳細を書かせていただきました。

 

「放浪作家」とか「ねねま ねねまる」とかよくわかんないこと言ってる、この人は誰なんだろう…と思った方。興味があるところで構いませんので、ちょっとプロフィール覗いて頂けたら嬉しいです!(できれば全部読んでくれ…)

 

まずは、簡単なプロフィールから!

 

 

名前 : ねねま ねねまる / 鈴木 結賀(すずき ゆか)

すずき ゆかという名前がありきたりすぎて飽きてしまったので、ねねま ねねまるという作家名を名乗ることにしました。結賀には、賀(よろこび)を結(むすぶ)という意味があるので、気に入ってます。ちなみに、中高生のときのあだ名は”けつか”でした。深い意味はありません。

 

年齢 : 24歳 (1994年2月17日生まれ)

出身 : 静岡県牧之原市(旧相良町)

住所 : 現在も牧之原市に住んでいますが、たまに移動します。

好き : カンボジア、キングダム、ビール

趣味と仕事 : 文章を書くことが好きです。ライター、ブログ、note 何でもやります。パソコンを触ってること自体が大好きなので、プログラミングの勉強もしてます。Ruby, PHPはもう少しで習得できそうです。

現在 :部品会社で派遣社員として働いていますが、18年6月末退職。7月よりフリーランスとして生活します。

 

人の輪に入れなかった幼少期~小学生時代

幼少期の性格

 

 

もともと保育園・小学生と、人の輪に入っていくことが大の苦手でした。幼少期、みんなが楽しそうに遊んでいるところを、机の影に隠れてじっと見つめていたほどです。

一人でいるのが好きというわけではなく、みんなの輪に入りたかったけど、輪に入る方法がわからなかったからです。

小学3年生~5年生の頃、その気持ちが裏返っていまい、人との関わり方や感情のコントロールの仕方がわからず、人を傷つけみんなから嫌われていたこともありました。

 

幼少期・小学生の頃のスキ!

 

人の輪に入ることができない私ですが、走ること・絵を描くこと・少年漫画を読むことが好きでした。走ることも一番に速いわけではないですし、絵を描くことも決して上手なわけではありません。

それでも、暇があれば絵を描き、陸上の大会があれば教室に通って、速く走る練習をしました。結果としても、一番になれたわけではないけど、好きなことに対して楽しんで努力するということを覚えたような気がします。

絵は友達と描いてましたが、陸上の練習は一人での参加だったので、一人で努力したり知らない誰かと関わったりすることも、小学生後半にはできるようになっていたみたいです。

ちなみに小学生のときはまった漫画は、幽遊白書, HUNTER × HUNTER, ONE PIECE, NARUTOです。

 

さぼり癖・諦め癖がついてしまった中学時代

 

それから、中学生での部活選び。私はやはり走ることが大好きだったので、陸上部を選びました。種目は短距離走 100Mと200Mです。0.01秒を争うこのシンプルな”走る”という行為が、自分にとって何かを極めるための努力をする原点だったと思います。複雑なものは苦手です。

 

中学1年生の頃は部内で1番か2番を争うくらいの速さでしたが、中学2年生の春にぐんと記録が伸びます。静岡県中部地区で予選落ちが当たり前の私でしたが、中部地区で6位、県大会には当たり前に出れるくらい速く走れるようになりました。

 

と、ここまで順調のように思えますが、中学時代には嫌な癖が身につくことになりました。”さぼり癖”と”諦め癖”です。中学1年の冬の時期、私は3ヶ月程練習に参加していませんでした。原因は友達からハブられてた時期なので、あまり人と関わりたくなかったことにありましたが、それでも復帰後すぐ元の速さに戻すことができ、記録も伸ばしたのでそんなに問題ではなかったです。

 

そして、私は同じく中学2年生の冬の時期にも部活へ行かなくなりました。理由は、冬になると長距離走の練習が増えて、努力することに疲れてしまったからです。中学3年生の頃も、受験が理由ではありましたが、夏が終わればすぐに部活への参加をやめました。また、高校1年生のときも陸上部に入り、秋まで真剣に努力してましたが、冬には退部をしました。

 

「燃え尽き症候群」と母親と話をしていましたが、努力することにむらが出ることよりも、”諦め癖”がついてしまったことが、自分をひたすら責める要因になっていったのだと思います。

 

自分のことが大嫌いで死にたいとばかり思っていた暗黒の高校時代

 

「暗黒の高校時代」すごく中2病っぽい言葉ですが、青春の思い出が全くないと記憶を抹消してしまうほど暗い学生時代を送っていました。

中学生の頃、私は学年でTOP10に入れるか入れないかくらいの成績で、勉強はそこそこにできるほうでした。しかし私は、歩いて通うことができる、あまり偏差値の良くない地元の高校を選びました。

 

この高校を選択したことに後悔は全くありませんが(自由な環境で勉強したかったので)、何かを真剣にやらなかったり、さぼったり、つるんだりすることがかっこいいとされた環境とのギャップで、自分がなんだか浮いた存在に感じるようになりました。

 

この頃から、他人を批判したり、他人の悪口を言ったりすることがとても増えました。そうでもしないと、浮いた自分の存在を正しいとみなすことができなかったのだと思います。同時に、自分のことが大嫌いになりました。ブスだし、体は太っていくし、可愛げのある笑顔を出すこともできなければ、人とコミュニケーションを取ることもどんどん下手になっていき、この世から消えたいとばかり願っていました。

 

今、考えれば友達はたくさんいました。放課後私の家がたまり場となり、テスト期間前に勉強をしたり、タコパをしたり、誕生日会をしたり普通に楽しい高校生活を送っていました。もちろん、その友達たちとは今でも繋がりがあります。

 

それでも当時の私は、周りの環境も自分自身をも許すことができなくて、学校を抜け出したり、休んだり、精神科の病院に通ったりしました。

 

バイトが続かず自分は社会に必要のない人間だと悩んだ短大1年

 

暗い高校生活からやっと抜け出せると、キラキラした大学生活に期待を寄せて向かった東京ですが、出だしでつまづくことになります。

お金があまりない家系に生まれた私は、親に仕送りを送ってもらわなくても生活できるようになろうと、生きこんでバイトを始めます。しかし、某アイスクリーム屋さんのオープン店舗の忙しさに耐えきれず、2週間でバイトを辞めてしまいます。

(詳しくは→ note: 大学1年アルバイトで苦しんだ私へ)

それから、一度コンビニのバイトにも挑戦していますが、たった2日で辞めています。

 

もともと、そこそこに勉強もでき、そこそに運動もできる私だったので無駄にプライドが高く、何もできない自分にひどく落ち込みました。諦め癖が再発してしまったと思ったりもしました。

 

それから、短大での授業も、家から出るのが面倒くさくてよくさぼるようになり、無気力でだらだらとした短大1年の生活を送るようになりました。何もできない自分にふさぎこんでしまう日もありました。

 

なんとか単位は取得したものの、短大生は2年生のときから就職活動が始まるので、私はこのままで社会に出れるのかと、不安になったことを覚えてます。

 

ふさぎ込んでばかりいた私に転換の兆しが見えてきた短大2年

無理せず誰でもできる簡単なバイトを続けてみる

 

短大2年生の春頃、某クレープ屋さんで働くことが決まりました。このバイトを選んだ理由が、そのお店のクレープが大好きだったからという、食いしん坊を大いに発揮している理由なのですが…

 

このクレープ屋さんが、販売をするだけの簡単なお仕事でした。注文を聞いて、陳列された商品を袋にいれて、代金を頂き、おつりを返す。これをやるだけでも、3日間は私にはできない…辞めたい…と思っていたのですが、4日目以降は辞めたいと思わず普通に仕事ができるようになったのです。

 

簡単な作業でも”バイトを続けることができた!”それが自分にとって、大きな自信・安心に繋がったのだと思います。

 

短大の講義で出会ったThe House on Mango Streetとジェンダー論

 

一番に自分が変わるきっかけとなったのが、サンドラ・シスネロスが書いたアメリカ文学『The House on Mango Street』だと思っています。変わるきっかけというよりは、可愛らしさ・女の子らしさの洗脳を解くきっかけになったと言えるかもしれません。詳しくは↓を見てみてください。

女の子らしくできない。女の子らしらに悩む女子に勧めるThe House on the Mango Street

 

『The House on Mango Street』の主人公エスペランザを見て、ブスでも生きていける、男っぽくても大丈夫、誰かに依存しなくても(頼らないという意味ではない)強く生きれると思うようになりました。

それを思ってからは気が楽になって、女の人とも男の人とも性別を問わず、コミュニケーションをとることができるようになり、他人の悪口を言うことも減り、自分に自信が持てるようにもなりました。自分は自分、他人は他人だなと思えるようになったのかもしれないです。

 

カンボジアでのツアーで初めて大勢の仲間ができた

 

ねねまるはじめてのカンボジア

 

短大2年の夏、スタディツアーで初めてカンボジアを訪れました。初のカンボジアでもあり、初の海外でもありました。実はこの1年前、私はバングラデシュ行きのスタディツアーをキャンセルしています。国際協力に憧れ発展途上国行きを夢を見ていた私ですが、知らない場所へ行く不安と面倒くささに耐えることができず、キャンセル料金がかかるときにツアーのキャンセルをお願いしました。

 

カンボジア行きのツアーも同様に、怖いし面倒くさいしキャンセルしようと何度も思いましたが、とりあえず行ってきなよという両親の支援の元、なんとか成田空港へと向かいました。

 

初めて海外へ出てみて、風邪をひいたり(エアコンの効きすぎ)、孤児院のこどもたちとの接し方がわからなかったりと悩んだりもしましたが、すごく楽しいツアーとなりました。

このときのツアーは、カンボジアがどうこうとか言うよりも、カンボジアのツアーをきっかけに大勢の人と話ができたり、ツアーをみんなで楽しんだり、SNSでつながることができたりしたのが単純に楽しかったからなのだと思います。

 

大勢のなかに飛び込む、知らない世界に飛びこむ。新しい世界を知るきっかけとなったのが、このカンボジアツアーでした。そして、結局私はこのツアー参加者の中で誰よりも、カンボジアという国にはまることになります。

 

大きな挑戦をした大学3年

新橋のBarでアルバイトをする

 

短大2年間の生活を終えて、私は他大学へ3年次編入をすることに決めました。両親に負担をかけたくないと思いつつも、ジェンダー論やカンボジアのことなど、まだまだ大学で勉強してみたいと思ったからです。

そして、短大生から大学生への移り変わりの年、私は新橋のBarでバイトを始めました。高校生の頃から自分に自信がなかったこと、大学1年の頃からバイトが続かず悩んだいたことを考えると、よく新橋のBarを選択したなとは今でも思います。

 

学生の環境だけで生きていた私ですから、“サラリーマンの街”と呼ばれる新橋で働けば当然視野は広くなります。Barの先輩からは、人との関わり方・人を楽しませること・お酒のこと等いろいろ教えて頂きましたし、時には一緒に納得できないことについて真剣に悩んだりしました。

 

Barのお客さんとは、進路のこと・夢のこと・恋愛のこと・歴史・好きなアイドルのこと等、真剣に相談にのってもらったり、とりとめのない話で盛り上がったりしました。話の幅や興味の幅が広くなったなとも思いますし、年代・世代の違う方々と話ができることは、何よりも勉強になりました。というか、単純に楽しかったです。今でもたまに遊んで頂いてます。

 

本気でカンボジアと向き合うんだと悟ったとき

 

ねねまる2回目のカンボジア

短大2年の夏に訪れたカンボジアですが、親友がカンボジアに行ってみたいと言ってたこと・自分自身がもう一度カンボジアを訪れたかったことを理由に、大学3年の夏また同じツアーで、カンボジアへと向かいました。

2度目となれば、見えてくる景色も大分違ってきます。1度目は、孤児院を訪れれば子供たちは喜んでくれていると思ってましたし、国際協力という言葉に何の迷いもありませんでした。しかし、2度目のカンボジアからは、孤児院ビジネスの闇みたいなものが見えるようになります。

“私がしているボランティアみたいなことは、本当に正しいのだろうか。国際協力とかボランティアなんて、エゴでしかないんじゃないか。”

そんなことを頭の中でぐるぐると考えるようになります。

 

それとは別にもう一つ、私には忘れられない景色がありました。“真昼間からトゥクトゥクの上で寝ているドライバー”です。外国人が横を通れば「Hello, lady!」と言うだけで、ほとんど仕事をしていないドライバー。私はこの景色が、すごく好きでした。

日本のデパートの、”お客さんがいなくても立ってることが当たり前”とか”お客様は神様だ”とか”笑顔で接客しなければならない”とという姿勢が、馬鹿らしく感じたことを覚えてます。

これくらい気楽でいいじゃん、そんなことを思うとなぜだか元気が湧いてきたんです。

 

カンボジアで働くことしか考えていなかった大学4年

 

2度目のツアーでカンボジアという国に更にハマり、3度目のカンボジアでは初めて両親に黙って、一人でカンボジアを訪れました。一時、大学を辞めて今すぐにカンボジアで働く!とも思っていましたが、流石に両親が可哀そうだったこと、まだ大学で学びたい分野もあったので、大学を卒業したらカンボジアで働こうということを決めました。

 

それからは、どこへ行ってもカンボジア、カンボジアとしか言っていなかったと思います。新橋のBarへ行けば、カンボジアが好きなんです!という話をし、大学の卒業論文では英文学科にも関わらず、カンボジアの女性問題について書くことにしました。

 

自分にはカンボジアしかないと思っていたのだと思います。ただただ夢中でした。

 

一度、派遣社員として地元の会社で働く。

 

それから、大学を卒業してすぐさまカンボジアへ!と行きたいところでしたが、働く先との時間の帳尻合わせのため(結局忘れられていましたが…)一度静岡県の地元の会社で、会社員として働くことにしました。

会社員とか絶対むいてないし、事務仕事なんか絶対無理!と思っていましたが、働いてみると会社で働くことをすごく楽しく感じました。一時期体調を崩してしまったこともありましたが、会社へ行くことが苦痛な日はほとんどありませんでした。

配属された部署が、多く存在する他部署のとりまとめのような部署だったので、その部署で働く人たちを見ているだけでも勉強になりました。私のチームは収益改善業務をしていたので、会社全体の動きを見ることができて、会社とはこういうものなのかとすごく勉強になったことを覚えています。

そこで働いているおじさん達(失礼)もいい人ばかりで、すごく好きな人たちでした。

 

それでも、もともとカンボジアへということは決めていたので、17年12月、9ヶ月間の会社員生活を経て、カンボジアへと向かいます。

 

念願のカンボジアに向かったものの、2ヶ月で帰国する

 

大学3年の終わり頃からずっと、呪文のように唱えてた念願のカンボジア生活ですが、結局私はわずか2ヶ月ほどで日本へ帰国してしまいます。理由は単純にお金が底をつきたことですが、原因はカンボジアには行きかったけど、自分がやりたいこと・やれることをよくわかっていなかったことにあると思っています。

とりあえず、どこでも働いてみればよかったのですが、なんかしっくりこないという安易な理由で、とりあえず働いてみるということはやめました。せっかくカンボジアにいるのに、労働をしていたら日本にいて生活することと、対して変わらないんじゃないかとも考えていたと思います。

 

ここで、私はフリーランスという働き方を知りました。自己発信をし、自身のスキルや営業方法を持って、個人で働いている人たちのことです。これならカンボジアにいても働くことができるし、カンボジアと日本を往復することも可能になるかもしれない!と思ったのです。

結局2ヶ月の間では、自身が生活できるほどお金を稼ぐことはできなく、日本に帰国することにしましたが、このとき学んだ「仕事を自分で作る」という行動は、後の会社員生活でもかなり役立つ大きな力となっていました。

 

もう一度会社員に戻る

 

そして、カンボジアから帰国して2ヶ月後、18年4月また会社員に戻ることにしました。働き先は同じですが、以前とは全く異なる部署への配属です。

SCM(サプライチェーンマネージメント)での受注管理と、自分が全く興味のない分野への配属でしたので、内心嫌々ながら初日に会社へ向かったのを覚えています。しかしいざ働いてみれば、以前の部署とは年代・性別・考え方等いろいろな部分が異なっていて、また新しい環境で新しい先輩たちを見て仕事ができることに、わくわくしたことを覚えています。自分が興味のなかったSCMに関しても、徐々に興味がもてるようになっていきます。

 

それから、自分が全く知らなかった分野、SCM・貿易関係の知識を身につけることができました。そして、何より前回と同じく、同じ部署で働く人たちがすごく好きになりました。

 

結果として、結局18年6月にこの仕事を退職することに決めます。人が好きなら仕事続けられるよね!とよく言われたりしますが、私「ああ、この人たちと離れたくないなあ」と思った瞬間、これは依存に入る部類(今いる場所から将来離れることができなくなる部類)だなと感じ、きちんと今の場所に区切りをつけなければと思ったからです。

 

現在とこれからの1年で実現したいこと

 

改めて、18年6月に今の職場を退職することに決めました。そして、また18年7月よりフリーランスとして生活をしようと思っています。第一の関門としては、自分が自立できるだけのお金を稼ぎ、個人でも生活できるようにということが目標となります。

 

それと同時に、この1年2ヶ月の会社員の生活を通して、(後悔はしていませんが)できなかったことがあります。それは、やはり好きなときに自分が行きたいと思った国へ行く、海外へ出るということでした。

カンボジアから1年ちょっとたった今、一度たりともカンボジアへ戻れていません。フリーランスとして生活をするからには、単純に一人でお金を稼ぐということだけではなく、時間や場所に捕らわれず、自分が知らない世界で新しい考えや知識に触れて、自分が得た知識を形に残す・アウトプットするということをしていきます。

特にこの1年間は、海外へできるだけたくさん出る(目標5回)ということを叶えていきたいと思ってます。。(同時に牧之原市のことも進めます。)

 

*下記がこの1年でやりたいことの目標です。 (日本国内も混ざっていますが、”自分が知らない世界を知る”という意味で捉えてください。)

7月中旬: カンボジア「ホリエモン祭」・ シェムリアップ・プノンペン滞在

7月30日~8月24日 : 石川県能登半島 田舎フリーランス養成講座受講(海外じゃないけど)

9月後半 : モロッコ

12月 : クリスマスのドイツ

1月 : 親友とのインドへの旅

4月 : アメリカ ニューオリンズ

 

最後に…

 

私は”成功者”と言われる人間でもなければ、ぱっとやって結果がでるタイプでもありません。

17年12月にカンボジアへ出てから、1年半という時間が過ぎていますが、未だ”鈴木結賀・ねねま ねねまる”という個人での結果は全く出せていません。時々自分のTwitterやブログの状況を見ては、私は会社員として落ち着いてたほうがいいんじゃないか、と落ち込むときもあります。

 

「結果に出ない努力は、努力とは言わない」と頭で考えてはいても、自分なりに自分の時間を取って、努力を重ねてきたつもりでも結果に出なければ、挑戦することが嫌になったりもします。後から始めた人が、私を軽々抜いていったときを見ると、言葉に出せない(出したくもない)悔しさを感じるときもあります。

 

それでも、まだまだ外にでることも・挑戦することもやめないのは、自分が死ぬまでに経験したいことや自分が見たことのない景色を見たいという思いが、たくさんあるからなのだと思います。まだ、このままで終われる自分ではないなというか….

 

ので、私は他の人より結果が出るのが遅かったり、生涯”成功者”として見られなかったとしても、挑戦することをやめたりはしないのだと思います。不器用な私ですが何度失敗しようとも、何度でも打席に立ち続けていこうと思います。

 

もし、このプロフィールを見て、ねねま ねねまるという人間に興味を持っていただけたのであれば、twitter, facebook, instagram, note好きな場所でフォローして頂けたら嬉しいです。

 

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ちなみに、自分がダメな人間だと思う人がいるのであれば、私を踏み台として、一歩踏み出して頂けたらと思います。そして、私も負けじまいとまた一歩踏み出したりできるのだと思います。

公開日:
最終更新日:2018/08/02